昭和53年01月24日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」

 親の心情と言うものは、子供にかけられる願いと言うものは、どうぞ幸せになってくれと、その願い以外にないと思ふですね。天地の親神様もそれ以外にない。氏子信心しておかげを受けて徳を受けて身凌ぎをする様になれ、本当に人間の幸福の条件が足ろうてくる様な徳を受けて、誰に頼む誰に願うと言うのではなくて、唯一心に信心をさせて貰うて、身凌ぎが出来る様なおかげを受けてくれ、これが神様の願いであり、親が子にかける願いと言うものもやはりそうであります。
 這えば立て立てば歩めの親心と、そこでその親心のそこのところが判らなければいけんのです。家の親はもう無理な事ばかり言う、今どきそげなこと言ったっちや流行らんと言った様に、例えばそう言う親の言う事の頂き方では、親の願いも成就しないし、子供もまた、おかげにはなりません。本当に親だ子だと言う親の情念と言うものが、又は子供の思いと言ったものがここに至った時に、初めて通うのが親子の情である。そう言う一つのル一トを辿って頂けるのが、おかげでありお徳である。
 こんど此処から八名の御本部学院行きがございます。その中に或る人が昨日、本当にこんど学院行きと言う事が腹が決まりました。腹が決まりましたら私が何十年間、親のお世話になって来たこと、親との関係のことがそれこそ走馬灯の様にことが考えられる。愈々全身全霊を神様へお供えする。そしてお道の教師にお取り立て頂こうと腹が決まりましたら、今まで何十年間、親に別に親不孝してきた事はないですけど。何十年間本当に親孝行どころか、親不孝ばかりして来た事に気づきましたら。
 有り難うして有り難うして、と言うてここで涙をながしとりました。親の子供を思う思いが始めて、自分が一心発起全身全霊を親のもう一つ上の親に、捧げようと言う気になった時に、今まで親と言うて来た両親に対する、孝行が出来ていなかったこと、いや親不孝ばかりして来た事が気づかせて頂いて。朝からそのことを思うと涙が流れて仕方がないと、ここに至らなければね、私は信心は分からんと思うです。今合楽で願いの信心と言打事が言われます。もう詫びることもいるお礼を申し上げる事はなおいる。
 けれども願いの信心こそ最高だ。神様が私共に願いをかけて下さる、その願いを分からせて貰うて、その願いが出来れる様になることが、もう最高の信心であると同時に、それはお道の信心の独壇場でもあろう。親と子との関係が分かれば分かるほど、親神様であることが分かれば分かる程、願はずにはおられん縋らずにはおられん。分かれば分かる程自分には何一つ出来ない所謂、我無力の自覚が出来てくれば来る程、そこに大いなるものに縋らずにはおられない。
 この事だけは私が出来る、私がすると言う所から神様のおかげを頂かねばと、言う事が分かって来ると願はずにはおられん、縋らずにはおられん。昨日も福岡の伊藤さんが月次祭前にお参りしてみえて、丁度福岡の共励会の前の日におしらせを頂いた。素焼きの器がある、それにミルクがこうやってこんこんと湧いている。まあいろいろ共励会の時に出していろいろ話は聞いたけどどうも自分にぴったり来ない。
 どう言う事だらうかと私は素焼きと言う事は神様だと言う事、言うなら神代時代と言う事、あの時分の器はみなかわらけですね素焼きです。だからこれは神を表現したもんだろう、ミルクと言うのは限りなく神様が私共の成長を願はれて下さる。いわば赤ちゃんにミルクを与えなければならない、そのミルクそう言う事であらう育てずにはおかん、育って呉れよと言う願い、それがあふれてお粗末になっている様なんです。
 私共が言うならば親子の情念が神様と私共と交流して来る様になると、それこそ願わずにはおられない、親の膝に這い縋って行く親もまたこれを抱きかかえて、それこそお乳を与える。親も乳を飲んで頂いて有り難いと思う、それを例えば親に縋って行く事もしなければ飲もうともしないならば、それこそお乳がはって親も痛い思いをせねばならん。仕方がないから、それこそ溢れる様にどこかに捨てなければならない。
 私はこの願いの信心を泉尾の三宅先生の御理解からヒントを得て、願って願って願いぬくと言う事が尾の信心の芯の様に言われるのが意味が分からなかった。段々分からせて頂くことは、泉尾の先生と言う方は、もう愈々以て天地の神様と一番近いところに居られる方だと私は思うた。誰よりも親の実感を持って居られる方だ。だから願わずにはおられないだから願って願って、もう何でもの願いに立ってと言われる。それが分からなかった。何でもの願いと言う言葉が沢山出てくる。
 先生のお話の中にはけれどもお礼さえ言うとれば、お詫びさえしとれば、おかげ頂けると言うふうに頂いとった私共にとっては、もうこの願いの信心は大変難かしい分からなかった。所が泉尾のせんせいが願って願ってと何でもの願いに立って、あれだけのご比礼をうち立てておられるのは、本当に親子の情念と言うものが誰よりも密であり濃いお方であった。だから言わば願はずには居られない方だ。だから自分の様な鈍物でも、神様がお庇いの中にあって、われ鈍物と言う字画と言う言葉がまた沢山出て参ります。
 われ鈍物何も出来ない自分と言う意味でしょう。こんな汚い私と言う事でしょう。こんな鈍なものと言う事がまたとあろうか。その鈍な私です、神様がおかばい下さりながらお引き立てを下さる事がまた有難い。そこで初めて分かって来た。成る程この様に親子の情念が強うなれば強うなる程、親神様は三宅歳雄と言う先生を庇わずにはおられない、そしてお役に立ちたいの一念をいつも燃やしておられる。
 自分の子供の中に例えば破廉恥なことをした子供があったとする、それが世間にはやされる、親としてこんな苦しい思いをする事はなかろう。それこそ人が悪口を言いよるならば、それこそ口に手を当てて「もうそげん言わんで下さい」と言いたいだろう。それが親の情である。成る程三宅先生はね、自分の様な鈍物を神様が庇いに庇うて下さると、その庇われなさる意味が分かった、親子だから庇はずにおられない。とてもあな家の子供はどこどこで強盗をした。
 家の息子はどこどこでこげな悪い事しましたと、言うて廻る親はいない。例えそれが事実であっても、それを隠してやりたいのが親心、庇うてやりたいのが親心。親子の情念と言うものが言うなら、三宅先生と言う方は天地の親神様に一番近い所におられる。親子の情と言うものを、誰よりも深く広く感じておられる人である。だから這って行かずにはおられん願って行かずにおられん。神様に抱きかかえられて一杯の乳を頂きなさる。それで信心が出来たかと言う事ではないですけれどもですね。
 出来ん所は出来たかの様にして、神様がお庇い下さって。今日の泉尾教会の御比礼があるといっおられます。だからどうでも神様との接近ですね。親神様の願いというのは、または親の願いと言うも。のは氏子が不幸になって呉れれば良いとがと、言う様な思いはもうさらさらない。氏子信心して徳を受けて身凌ぎをする様になって呉れと言うのが親の切願なんだ。もう切なる願いなんだ。
 その切願にふれた時です、初めてああ自分が何十年間親不孝をして来た事がはっきり分かって来た、人間の本当の幸せと言うのは、神様に愛されなければ人間の幸せはない。神の手にも足にもならうかと一心発起させて頂いて、神の願いに応えようと思ったら、それこそ改まって、あただに何十年間親不孝して来た事の非を、悟らせて貰うて詫びずにはおられない。是を思うたら朝から涙が流れて仕方がないと、言う所に立たせて頂いて、始めて親の思いと子供の思いとが言うなら、親と子との思いが初めて通う事になる。
 合楽理念の芯は親孝行にあるとさえ言われとる位デス。親孝行が出来ん人間で本当のおかげは受けられん。だから今日私がいうた本当の親孝行。言うならばこれからは親不孝の段ぢゃない。親に少しでも喜んで貰はにゃおられんという、その心を持ってこんど学院行きをする。神様の願いに応えられる信心が出来ることでしょう。ここを土台にする、そして神様の願いというものが分かって来る。
 神様はどうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ、徳を受けて身凌ぎの出来る様な、おかげを頂いて呉れよというのが親神様の情である様に、また肉親の親の願いも、子供にどうでも幸せになって貰いたい。健康でもあって貰いたい。その親の思いが様々な形で或る場合には厳しく、或る場合にはそれこそ無茶と思はれる様な事も敢えてさせるけど。その真意を分からせて頂くと親が子を思う情念がそう言う事に成って来る。
 言うならば這えば立て、立てば歩めの親心をそこに感じられるときにです。私は初めて願いの信心の真意と云うものが分かって来ると思うのです。そこでです皆さんが話を聞いて下さりゃ、御理解で話しておる事ですから皆さんよう分かんなさる。成る程這えば立て立てば歩めの親心。神様はどうぞ氏子信心して、おかげを受けてくれよと言うのがそれなんです。親の思いが分かった、神様の思いが分っただけでは不思議におかげにならんからまた有り難いのです。
 今日私が皆さんに聞いて頂いた様な事を分かった、そりけん早速おかげをうける事では決してない。まだ本当に分かっとらんからであります。これは私の三十年の信心をふり返ってみて、思わせて頂きますのにそれこそお道の信心は、日勝り、月勝り、年勝り、しかもそれが代勝りになる様なお徳を受けると言う事。金光大神はそう言うおかげを受けてくれる氏子のために、御出現になったと言うても良いのです。そこで神様に様々な願いをさせて頂く、まあいろんな難かしい事がおこって参ります。
 言うなら難儀な問題とそれを申します、それでもどうでもやかげを頂かねばならない。時に私が思うのは、とても考えにも及ばなかった改まりが出来て来たと言う事です。合楽の信心を幾段階に切ってするなら、その段階のたんびに、それこそ『欲しいとも思はぬ雨垂れの音をきく』で、もうこんなもんばたとえば取り除かんならんならとね。先日からタバコを取り外して行く事やらね。
 これは形の上のことですけど、ほりやほんにどうして止めたぢやろうかと、めにやよかったとはさらさら思はない、もう止めて良かったとしか思はない。さあ合楽で一寸お神酒どんがはいるとサア歌をうたう、三味線を出せこれなんかもう私は一生踊りてんなんてん、年取って踊ったり、はねたりは出来んばってんが、三味線ならどげん年取ったっちやでける。まあ一生楽しまれると言う思いもあって、三味線の稽古をさせて頂いたけれども、この頃もう一年になりましょうか。
 三味線を握らないと言う事にしましてから、もう握ってみろうとも思いませんならこれを四、五年前か十年前であったらです、そげなこと思いもしませんことでした。これは形のことです。なら心の上にもです、これはなからにゃいかんと思いよった事でがです、そう言う何か節のたんびんに、改まっての願いと言う事になってきた。段々自分が窮屈になって来るかと思うと、そしたら窮屈の段ぢやない、もうそれこそ世界はわが心にありと云うような感じすら自分の心の中にひろくなって来た。
 こうせにやならん、こう食べにやならん、こう飲まにやならん。これが人間の幸せになると思っておった思いがもう全然変わって来た、幸せの観点が変わって来た。だからそう云う時期に於いてはとてもこれはお供えするわけにはいかんと思いよった。むつかしいけれどもです。今日を境にと腹を決めたらそのことが、大変有り難い事になって来た。そしてなら願いが成就する事になった。そこで初めて分からせて頂くのは、ここんところを皆さん聞いて頂きたいのです。
 改まらなければなぜほんとの親神様との距離が近くならないかと言う事です。成る程親神様は這えば立て、立てば歩めの親心でおありになるなと言う事が、本当に分からせて頂くのは、改まったたんびんに自分が楽になる。改まったたんびんにおかげが飛躍しておる。そしてそこで分からせて頂くことは、成る程改まる時に如何にも苦しい事の様であっても、神様がこう言う心の楽な状態、こういう飛躍したおかげを下さるための働きであったと分かるときに、成る程親神様だなあと言う事が分かって来るのです。
 ここんところです、改まって頂いたおかげでなからんとです。これが生まれて来んです。唯そのお取り次ぎを頂いておかげを頂いたと言うだけではね。いえ本当の願いの信心に進んで行く事が出来んです。改まると云う事は難かしい事の様におもった、それこそ『打ち取るは難かしされど妙賀かな』と云う喜びの妙と言う、喜びの妙にふれられると言う事は、そのことよりももっと素晴らしいと言う事が分かる。そしてこういう境地こういうおかげを下さろうとする、親神様の働きであった。
 いわば這えば立て立てば歩めの親心であったと言う事が真から分かるから、親心に対する子供の情念というものがそこに交流するのです。何十年信心しておってもです、唯信心を頂かずにおかげを頂いて行くという事では、愈々本当の願いの信心に立つことが出来ないと言う事であります。改まりの素晴らしさ、改まりの有り難さ、それをふり返ってみると神様がこういう心の状態。
 こういうおかげを下さろうとする神様の働きで、さあ改まれ、改まれというならば、難儀から難儀をおしつける様に、難儀な中にあったと言う事が分かります。信心しよってどうしてこんな難儀なことが、その難儀そのものが御神願であり、御神愛である。だからその難儀そのものが神願だ、神愛だと分かることのためにです。言わば断ち切る事の出来ない難かしいとおもっておったことに、本気で取り組ませて頂いて、それを断ち切っておかげを受けて行くだけではない。
 これを断ち切ると言う事がこんなにも楽なものかと、言う事がわかって来て、初めていうならば神願の何たるかが分かって来る。お徳を授けたい、身凌ぎのおかげの頂ける様なおかげを受けさせたいという、神の願い以外にない。この方は参って尋ねる所がなかった。合楽では言うならばそこんところをです。噛んで含める様に教えて頂くわけです。だから聞いておるというだけでなくて、それを実際実生活の上に現して、今日は特に改まると言う事がです。
 ははぁ改まって願ったらこういうおかげを頂いた、改まったら自分の心がこんなにも楽になった。とても信心のない時は、こげな事は取り除かんならんとか、改めにやならんと思うたら、もう大変な苦しい事であったろうけれども。一心発起させて頂いて頂かせて頂いたら、これがどの様に天地に対するお粗末御無礼になっていたか。本当に何十年間という親不孝がどの位天地に対する御無礼になっておったかと。一心発起したとたんに分からせて頂いた。そこから改まったおかげにもなって来た。
 そして親だな親神だなと言う事が実感として伝わって来る。その実感を以て親の膝に這い上って行くという行き方親も喜び、乳を与えて下さる親も喜ぶなら、乳を与えて頂いた私共も、嬉しい有り難いと言う事にもなるのです。だから難かしいというのはね。普通なかなか出来ませんけれども、何がどうでもおかげを頂かんならん、例えばこの難儀の中から一つ本気で楽のおかげを頂きたい。と云う願いを持っておる、思いが強ければ強い程、改まりは出来るものです。
 この六十四節は簡単に読み下せば、何でもない様にありますけど所謂神様の切願だ。切なら神様が私共にかけられる願いだと言う風に思うてこれを頂きますとです。信心して徳を受け身凌ぎの出来る様になれ、此処へ参って来るとその徳を受けて行けれる信心を教えて頂けるんだ、と言う事になるのです。ここでは徳を受けて行くことの手掛かりを教えて頂くのです。だからそれを身につけることはです、まず改まらなければ出来ることぢゃありません、一心発起しなければ出来ることではありません。
 それは大変な難かしいことの様であります。それこそ打ち取るは難かしされど茗賀かな、と云うその喜びの妙にふれられると言う事、それがお徳であります。お徳を受けた向こうに、云うなら自由無碍と云うですか身凌ぎが出来る様なおかげが待っておる。神様の願は氏子の一人一人が身凌ぎの出来る様なおかげを願うておられる、と言う事がです改まって願う所から初めてわかるのです。ですからこれで良いと言う事は一ちよもありません、また次ぎの段階にもっというなれば、自分というものを改まりもする。研きもするだからこの方の道は生神への道と言う事が言えるのです。これはね私が今三十年間の自分の信心と言う事を、もう改まったたんびんに自分の心が、分かり易く云うなら美しうなっとるし、清らかになっとるし豊かになっとる。だから豊かな心になっとるから、おかげも豊かになって来ておる。そして思うのはああ神様が、こういう豊かなおかげを下さるために、さあ改まれと云うてあの苦しいこと嫌なこと。腹の立つことが起こっておったんだなと言う事がわかる。成る程親ぢゃなと言う事が分かる、その親ぢゃなと言う事が分かれば分かる程、実感で感じれば感じる程、この親には縋らずにはおられんと言う、願いの信心がいわば本当のものになって来るのですよね。 
   どうぞ。